「広報津」平成23年1月1日/第121号(音声読み上げ) 浅井三姉妹-茶々・初・江[ごう]-ゆかりの地

登録日:2016年2月25日

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浅井三姉妹-茶々・初・江[ごう]-ゆかりの地

 浅井長政[ながまさ]と織田信長の妹であるお市のかたの間に生まれた茶々・初・ごう、いわゆる浅井三姉妹は、戦国時代に生き、過酷な運命に翻弄された姫たちといわれています。実は、浅井三姉妹は幼少のころを津市で過ごしていたこと、知っていますか。
 今月からは、三女のごうが主役であるNHK大河ドラマ「ごう-姫たちの戦国-」が始まることもあり、注目されています。

三姉妹の生涯

 ごうは、1573年(天正元年)、北近江の小谷城で浅井ながまさとお市のかたの三女として生まれます。しかしその年、父親である浅井ながまさは、織田信長に攻められて亡くなり、母親と二人の姉(茶々・初)と共に織田信長に引き取られました。翌年には、信長の弟である織田信包[のぶかね]の元に預けられ、のぶかねの居城であった伊勢上野城で6年間、その後安濃津城で2年間を過ごしたといわれています。のぶかねの庇護の下、伊勢国で暮らしていましたが、本能寺の変で織田信長が討たれると、尾張国へ移ったとされています。
 その後、茶々は豊臣秀吉の側室(淀殿[よどどの])となり、秀吉の死後は豊臣家の実権を握りますが、大坂夏の陣で徳川家康に攻められて亡くなります。初は近江国の大溝城主京極高次の正室となり、ごうは12歳で尾張国大野城主佐治一成(離別)、20歳の時に岐阜城主の豊臣秀勝(死別)、そして23歳で徳川家康の三男秀忠に嫁ぎます。
 初は、大坂夏の陣で姉(よどどの)の豊臣家と妹(ごう)の徳川家との仲裁役として奔走しました。
 ごうの夫である徳川秀忠は徳川幕府の二代将軍となり、ふたりの間に生まれた長男の竹千代(家光)は三代将軍になります。激動の人生を生きたごうは、1626年(寛永3年)に江戸城で54歳の生涯を終えました。

ごうの生涯

1573年(天正元年) 浅井ながまさとお市のかたの三女として生まれる
小谷城落城
お市のかたと三姉妹(茶々・初・ごう)が信長に引き取られる
岐阜城に入る
清洲城に入る
1574年(天正2年) 母、姉と共にのぶかねの居城である伊勢上野城に入る
1580年(天正8年) 安濃津城完成に伴い、母や姉と共に安濃津城に移る
1582年(天正10年) 本能寺の変、信長死す
母、姉と共に清洲城へ移る
清洲会議
母、姉と共に北庄城(福井)へ移る
1584年(天正12年) 佐治一成に嫁ぐ
1592年(文禄元年) 豊臣秀勝に嫁ぐ
1595年(文禄4年) 徳川秀忠に嫁ぐ
1626年(寛永3年) 江戸城で死す

 

ごうをめぐる人物相関図

織田信秀

祖父

土田御前

祖母

織田信長

伯父

織田のぶかね

(信長の弟)

お市

(信長の妹)

浅井ながまさ

茶々(よどどの)

浅井3姉妹

豊臣秀吉

茶々の夫

初(法号・常高院)

浅井3姉妹

京極高次

初の夫

ごう(小督[おごう]、お江与[えよ]ともいう、いみな・達子、法号・崇源院)

浅井3姉妹

佐治一成(尾張国大野城城主)

ごうの最初の夫
1584年(天正12年)初婚、同年離婚。

豊臣秀勝(秀吉の甥)

ごうの二番目の夫
1592年(文禄元年)再婚、同年戦死。

徳川秀忠

ごうの三番目の夫
1595年(文禄4年)再再婚、二男五女をもうける。
1605年(慶長10年)に徳川二代将軍になる。

■徳川秀忠とごうの子どもたち

千姫

1597年(慶長2年)生まれ。豊臣秀頼に嫁ぐ。
豊臣家滅亡後、本多忠刻[ただとき]と再婚する。

珠姫

前田利常[としつね]に嫁ぐ。

勝姫

松平忠直に嫁ぐ。

初姫

常高院[じょうこういん]の養女となり、京極忠高[ただたか]に嫁ぐ。

竹千代(家光)

1632年(元和9年)、三代将軍となる。

国松(忠長[ただなが])

駿府藩主となるが、改易される。

和子(法号・東福門院)

1620年(元和6年)、後水尾天皇の中宮となる。

 わたしの伯父さんは織田信長、義兄が豊臣秀吉、義父が徳川家康なんです。
 幼いころに9歳まで津市に住み、お母さんやお姉さんたちと一緒に、親子水入らずで過ごしました。お城から海を眺めたりしながら、わたしの人生の中で、最も穏やかで幸せな時間でした。

ごうに関する資料などをそろえています。ぜひ、ご利用ください

本城山青少年公園展望台資料室のご案内
(伊勢上野城跡)

内容 ごうに関する年表や相関図、ごうが織田のぶかねに預けられていたことを示す織田軍記の複写(一部)など 
利用時間 9時から16時30分 注:月曜日、12月29日から1月3日は休館
問い合わせ 河芸総合支所地域振興課 電話番号244-1707 ファクス245-0004

伊勢上野城跡(推定)の復元模型
天守台跡や二の丸跡、武家屋敷、伊勢街道など城と城下の様子を推定して復元しています。

 織田信長の事跡を記した『織田軍記』(巻十三)には「・・・備州(ながまさ)の内室は正しく御妹なるが故に、暫時の間は上野介のぶかねに預け置かれ、其後尾州清洲の城へ遣され、御扶待米を遣され、三人の息女、皆御養育なされ置き給ふ・・・」とあり、母親と三姉妹がのぶかねに預けられ、伊勢上野城に居たといわれています。

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浅井三姉妹ゆかりの地、河芸

伊勢上野城跡

 伊勢上野城は、標高30メートルの高台にあって、城域は東西約250メートル、南北約550メートルにもおよび、当時としては中勢地域の中では最も大きな平山城の一つであったと考えられています。城の主郭[しゅかく]の周囲には、かつて土塁[どるい]や堀切りで区画された郭が取り巻き、特にしゅかくの東側には幅が20メートル近い空堀があり、その四周には今も所々にどるいが残り、城らしさをとどめています。
 戦国時代の伊勢国の勢力図は、北勢は北勢諸士と関氏、中勢は長野氏、南勢は北畠氏が治め、互いにけん制した関係にありました。そのような中で、長野氏の家臣で安濃郡分部を本拠地としていた分部光嘉は、長野氏から奄芸郡を中心とした海岸地域を抑える役割を与えられ、この城を預けられていました。
 1568年(永禄11年)には、織田信長の伊勢侵攻により、弟ののぶかねがこの城に入り、分部氏はのぶかねに仕えました。のぶかねが1580年(天正8年)に安濃津城(津城の前身)に移ると、分部氏が再び伊勢上野城の城代[じょうだい]となりました。
 関ヶ原の戦いの後、分部光嘉[みつよし]は二万石の上野藩主となりますが、二代藩主の分部光信が近江国大溝(現在の滋賀県高島市)へ転封になると、この地は紀州藩領となり、伊勢上野城も廃城となりました。

伊勢上野城跡(本城山青少年公園)おすすめビュー

伊勢湾が一望できます

 二の丸跡から少し下ると、伊勢湾を一望できる場所に東屋[あずまや]があり、大パノラマが広がります。浅井三姉妹もこの景色を楽しんでいたのではないのでしょうか。

 現在、上野城跡一帯は本城山青少年公園として整備され、憩いの場となっています。天守台跡に建てられた展望台からは、しゃくじょうヶ岳や経ケ峰、天気のいい日には、中部国際空港も見渡すことができます。
 かつて本丸跡には、幹周り7メートル、高さ27メートルの「本城松」と呼ばれる大樹があり、伊勢湾を航行する船や漁船にとっての目印として重要な役割を果たしていました。

光勝寺

伊勢上野城の城主であった分部みつよし公の嫡子、光勝[みつかつ]公の菩提寺です。

円光寺

分部みつよし公が伊勢上野城の城主となり、分部家の菩提寺としました。本堂の南隣に分部家祖先の基塔があります。

地域のいいとこ発信します 河芸「ごう」の会

会長の長谷川正廣さんと増井弘さん

 昨年4月に発足したボランティアガイド、河芸「ごう」の会。上野地区を中心に14人のメンバーが毎月勉強会や情報を交換して知識を深め、地域を訪れる観光客の皆さんをもてなします。「見慣れていた町のことを観光資源として考えたこともなかったので、正直驚いています。生まれた時から住んでいて、地域のことをよく知っているようでも、あらためて発見することはとても多くて、中でも歴史は奥が深いですね」と話す長谷川さんと増井さん。
 ここを訪れる人といろいろな話をしたり、ガイドを終えてありがとうと言ってもらえた時が一番うれしいというおふたり。
 訪れる観光客の中には歴史に精通している人もあり、勉強が欠かせないとか。ガイドを通じてアピールする地域の魅力は尽きないようです。

河芸の隠れたお勧めスポット 田中川干潟

 伊勢湾へ注ぐ田中川の河口右岸に広がる潟湖タイプの干潟です。海水と淡水が混じり合い、さまざまな生き物が見られます。中でも塩生植物のハマサジとハママツナの群落は、ほかではなかなか見られない大きなものです。
 干潟の生き物を守るために、堤防は石積み式となっています。堤防ぎわには、伊勢湾でここが自生地としては北限となるハマボウの古木があり、7月中旬から8月中旬にかけて黄色い大きな花をつけます。
 干潟と海の間には、ハマボウフウなどの海浜植物が豊富な砂浜が広がり、県の鳥であるシロチドリの繁殖地になっています。また、ヒバリも繁殖しており、アカウミガメも産卵にやって来ます。
 また、ハクセンシオマネキとシオマネキはここが日本の北限生息地となっています。

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