「広報津」平成24年1月1日/第145号(音声読み上げ) 雲ず川 水紀行

登録日:2016年2月25日

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雲ず川 水紀行

 雲ず川は、奈良県境の高見山地にある三峰山[みうねやま](標高1235.2メートル)に源を発し、津市域の南半分を流域にもつ全長50キロメートルを超える一級河川です。源流の一滴に始まり、渓谷から平野へと流域を潤し伊勢湾に注ぐ雲ず川が育んだ自然や歴史をたどってみましょう。

上流の渓谷から平野部への流れ

 上流部の美杉地域では、豊かな自然の中に天然記念物をはじめとする多くの動植物が分布しています(裏表紙の「歴史散歩(68)美杉地域に生息する天然記念物」参照)。また、谷となって山を下る水は、上流部の美しい景観をつくり出すとともに、古くから私たちの生活に利用されてきました。
 上流の急傾斜地につくられた藤堂池は、みたけのサクラの北にあるため池で、その名のとおり、津藩(藤堂藩)の灌漑[かんがい]政策の一環として作られました。この水を利用することで斜面の棚田の稲作が可能となり、春の田の水面に映る見事な桜並木の景観をもたらしてくれています。
 上流部のもう一方の流れである八手俣川[はてまたがわ]は、多気・しもの川地区を流れ下り、水系で唯一のダムである君ヶ野ダムを経て、竹原地区で本流に合流します。
 白山 地域に入ると川の流れは一気に急になり、「家城ライン」と呼ばれる急流から、かつては硬い岩盤を削って洪水防止が施された流域随一の激流部である瀬戸ケ淵に至ります。その上流部の井堰[いせき]で水流をせき止めて農業用水を取り入れた「川口井[かわぐちゆ]」をはじめ、いちし町には「高野井[たかのゆ]」、そして戸木町には「雲ず井[くもずゆ]」が作られ、流域の米づくりに大きな役割を果たしました。

穏やかな流れは河口の三角州へ

 中流域からは川幅も広くなり、ゆったりとした流れが続きます。いくつかの井堰が設けられた本流が下流域に差しかかろうとする場所で長野川が合流します。
 美里地域に源を発する長野川は、津市の水道取水口が設けられ、私たちの生活に欠くことのできない水道水の源流でもあります。この川では、貴重な天然記念物「ネコギギ」の生息も確認されていて、その流れの清らかさがうかがえます。
 さらに下流に向かい、右岸から波瀬川が合流する辺りはアユの産卵に適した環境を形成し、その下流の流れの緩やかな場所は、カモ類の集団休息地として知られます。
 松阪市嬉野地域からの支流中村川が合流する辺りの下流域ではさらに川幅が広がり、広い河川敷には緑地公園などが設けられて多くの人々の憩いの場となっています。
 50キロメートルを超える川の流れは、河口に大きな三角州(香良洲地域)を形成しました。全国的に見ても珍しい典型的な三角州である雲ず川河口付近は、干潟が生じる環境にあり、多くの渡り鳥が羽を休める絶好の越冬地となっています。
 源流から河口に至るまで、豊かな自然と歴史に育まれた雲ず川。その流れは、私たちの生活に大きく関わり、たくさんの動植物の命の営みを支え、多くの作物を生み出す豊かな大地を形成してきました。
 源流から河口へとその水の流れに沿って流域をたどると、さまざまな地域の風景が浮かび上がってきます。また、同時に、川の流れにまつわる歴史を通じ、地域の発展につながる源となった川の姿も垣間見えるようです。

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雲ず川流域の発展に尽くした人々

 雲ず川は、その流れを利用する私たちにとって、豊かな恵みをもたらしてくれています。しかし、流域に広がる豊かな田園風景が現在の姿になるまでには、川の治水や流域の水田開発に力を尽くした人々の姿がありました。今から400年近く前の江戸時代前期、雲ず川の利水を指導した西嶋八兵衛[にしじまはちべえ]と山中為綱[やまなかためつな]。この2人の功績を紹介します。

西嶋八兵衛 慶長元年(1596年)から延宝8年(1680年)

 西嶋八兵衛は、遠江国[とおとうみのくに](現在の静岡県浜松市)に生まれ、津藩初代藩主の藤堂高虎に仕えた家臣のひとりです。
 もともと祐筆[ゆうひつ]と呼ばれる書記官の仕事をしていましたが、城づくりの名人といわれる高虎の側近にあって、各種の土木事業の専門家としてその才能を発揮しました。
 平安時代の僧空海(弘法大師)が作ったといわれ、日本最大のため池である香川県の満濃池は、八兵衛が高虎の孫高俊が藩主であった讃岐国生駒家へ派遣された時、八兵衛の指揮により大規模な改修が行われました。その後も八兵衛は、同地の河川改修や新田開発に大きく貢献し、90以上のため池を作ったといわれます。

雲ず井の整備

 津藩の領地であった雲ず川下流地域の村々は、川が近くを流れているものの、その水面が低く、干ばつに悩まされた地域でした。
 寛永19年(1642年)、正保3年(1646年)と時を経ずして襲った大干ばつで津藩領内が大凶作となったことから、2代藩主藤堂高次は八兵衛に領内を巡回させて村の復興を検討するように命じ、その進言により「雲ず井」の開削が行われました。この工事は、戸木村(現在の戸木町)を流れる雲ず川に堰[せき]を設けて取水し、久居・高茶屋の台地裾を通って下流域まで水を流す、延長7,200間(約13キロメートル)に及ぶ大工事でした。
 工事を陣頭指揮した八兵衛は、土地の高低差を調べるために夜間松明[たいまつ]をともし遠望して測量し、井水の側溝斜面には竹を植えて崩壊を防ぐなどしました。また、水路は途中に7カ所の樋門[ひもん]を設けて水流を調節する方法をとり、高茶屋地域で高郷井[たかごうゆ]・八寸[はっすん]・揚溝[あげみぞ]に三分して、高茶屋・雲ず・垂水・藤方の村々へ水が行き渡るようにしました。以後はこの水路整備によって干ばつの心配がなくなり、600ヘクタールほどの水田で1万石(1万人が1年間に食べる米の量)の増収につながりました。
 八兵衛は、その後、山城・大和にあった藩領を治める奉行(城和奉行)となって活躍し、80歳を超える年齢まで藩政の重責を担いました。

山中為綱 慶長18年(1613年)から天和2年(1682年)

 雲ず川下流域での水利の功労者である西嶋八兵衛の活躍から、やや時を置いて、津藩の2代藩主藤堂高次に仕えた家臣が山中為綱です。為綱は、雲ず川の中流域(いちし・白山 地域)での治水事業や井水開削、新田開発に尽力した人物です。 

瀬戸ヶ淵の開削

 白山町北家城の瀬戸ケ淵は、両岸の岩盤が迫り流路が狭くなっていて、大雨ごとに水が氾濫して洪水を引き起こす場所でした。いちし郡奉行であった為綱は、この岩盤を削り、川の流れをスムーズにする難工事を3年の歳月をかけて成し遂げました。また、その上流に井堰を設けて下流の水田に水を流す井水を開削し、家城と川口の両地区の灌漑用水を設けました。これによって4,000石近くの石高が確保されることとなり、その恩恵は津藩だけでなく紀州藩の領域にももたらされました。

高野井の整備

 為綱が指揮した井水開削はこれだけではなく、いちし町高野には高野井を設けています。これは、肥沃[ひよく]ではあるものの時折干ばつの被害を受ける村の庄屋からの願い出に応じ、自ら水路を調査し、工法を研究して新たに取水口(現在の高野井)を設けて雲ず川の水を引き入れたものです。約2.7キロメートルに及ぶ水路を整備し、9年にわたる工事を完成させました。
 これによってそれまでの4倍の面積にあたる8カ村の480ヘクタールの水田が潤い、以後は干ばつの心配がなくなったといわれます。
 そして24年にわたって伊勢国の奉行職にあった為綱のもう一つの功績が、伊勢国内のさまざまな地誌情報を網羅した「勢陽雑記[せようざっき]」を著したことです。ここに記された種々の地誌に関する情報は、三重県の歴史や風土を探る上でも重要な内容を含んでいます。
 その後、伊賀奉行に転じた為綱は、天和2年(1682年)に70歳で亡くなりましたが、雲ず川の中流域の開発に関わったその功績は現在にも伝えられています。

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