「広報津」平成24年4月16日/第152号(音声読み上げ) 歴史散歩(71)

登録日:2016年2月25日

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歴史散歩(71)

津のお台場(贄崎[にえざき]砲台)

 津にお台場があったことは、昭和40年ごろまで松の生い茂る小山として姿をとどめていたことから、記憶に残っている人もいるのではないでしょうか。
 今からちょうど150年前の文久2年(1862年)、津港近くの贄崎と塔世橋西側の西裏に、津藩の海防政策の一環としてお台場が造られました。
 お台場と聞くと、東京湾臨海副都心の呼び名としてよく耳にしますが、津のお台場も東京のものと同じ目的で作られたもので、幕末期の外国船の侵入に備えるために大砲を据えた砲台場です。
 こうした砲台場が作られるようになったのは、嘉永6年(1853年)に起こった黒船の浦賀来航(ペリー来航)が大きな契機となっています。この年、幕府は伊豆韮山[にらやま]代官の江川坦庵[たんあん]に品川台場の築造と韮山反射炉(鉄を精錬するため燃焼する熱を反射利用する構造の炉)の建設を命じて、当時科学技術の先進地であった佐賀藩の協力を得て本格的な西洋大砲の製造に取り組んでいます。ここでは、元治元年(1864年)にその使用が中止されるまで数多くの大砲が作られ、品川台場に28門が配備されたといわれています。
 それでは、津のお台場に据えられた大砲はどのように作られたのでしょうか。
 昭和34年刊行の「津市史」第1巻には、津藩が釜屋町の鋳物師奥山金吾に命じ、馬場屋敷(今の津市営球場辺り)の一角に鋳造所を設けて、ここで大砲鋳造をおこなったことが記されています。奥山金吾については、戦災で市街地が焼けてしまったため、その詳細がわかる資料は残っていませんが、栗真中山町の鋳物師阿保家に伝わる大砲図面や注文書の控えなどの資料(新指定の文化財、本紙表紙参照)から大砲鋳造の詳細が分かります。大小さまざまな種類の大砲図面の中では、80キログラムの弾丸を発射する口径22センチメートル、総重量2トン以上の鉄製カノンと呼ばれる大砲が最大のものになります。
 実は、幕末期の津で大砲が作られていたことは全国的に見ても注目されることなのです。当時、幕府のほかには、長崎港の警固を任された佐賀藩や、近代技術を積極的に取り入れ明治維新の中心となった薩摩・長州などの雄藩、そして徳川御三家のひとつである水戸藩などが直営で大砲鋳造をおこなったことが知られています。しかし、津藩のように在来の鋳物師技術の延長線上に大砲鋳造をおこなったところは数えるほどで、しかも奥山家や阿保家は藩の期待に応えるだけの鋳造技術を持っていたことを証明しており、幕末期における津の技術力の高さを物語っています。
 県が所蔵する「贄﨑砲臺図」を見ると、大小11門の大砲が伊勢湾に向けて据えられる構造となっていて、岩田川河口部が外国船の脅威に対する津の町の防衛拠点であったことが分かります。ただ、実際に外国船に向けて大砲が発射された記録はありません。津のお台場は、本来の目的と機能を発揮することなく、その姿を消したことになります。
 現在、かつての贄崎砲台があった場所はすっかり様変わりし、その面影を見ることはできませんが、外圧高まる緊迫した幕末期に整備された軍事施設は、平和な時代にこそ振り返ることのできる津の歴史のひとこまです。

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