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県道42号をしゃくじょう湖水荘から安濃川沿いに上流側へ1キロメートルほど行ったところに落合橋があり、その付近で我賀浦川と黒曽川が合流しています。この二つの川の間に舌状に延びる丘陵に、十数軒の民家と成覚寺があり、この成覚寺には、平維盛[これもり]にまつわる平家の伝承が残されています。
平維盛は「平家物語」では、寿永3年(1184年)、屋島の戦いで敗れた後、那智沖で入水したとされていますが、成覚寺伝によると、維盛は入水したように見せかけて、31人の家来と共に現在の芸濃町河内の地に逃げ延びて草庵を建てて住まい、承元4年(1210年)、享年53歳で没したと伝えられています。そして、維盛の念持仏であった三尊仏(釈迦[しゃか]、普賢[ふげん]、文殊)を本尊として、この地に清運寺を建立したのが、成覚寺の起源とされています。
その後、清運寺は真言宗から禅宗となり、天正15年(1587年)、真宗高田派に転派します。その際に、墓を真宗形式にし、寺号も維盛の法号「成覚院岩間浄圓[いわまじょうえん]」にちなんで、岩間山成覚寺と改めました。
成覚寺では、宝永7年(1710年)、維盛の没後500年のときに梵鐘[ぼんしょう]が作られました。今も成覚寺の鐘堂にあるその梵鐘は、津の鋳物師[いもじ]辻種永の作といわれています。
また、成覚寺には平維盛像が残されており、本堂裏には維盛の墓もあります。中央に「平維盛之墓」と刻まれた墓石は、寛政8年(1796年)9月、維盛の600回忌の法要を十数年繰り上げて催したときに、墓域に新しく建てられたものです。碑銘の撰文[せんぶん]は、巌垣龍渓の作とされています。
維盛の墓域は現在も整備が続けられ、平成11年には、ナギの木一対が植樹されました。ナギの木は、維盛の父である平重盛が、平治元年(1159年)に熊野速玉大社社殿落成の記念に霊力のある木として植えたところ、その後大木に育ち御神木となったことから、大変縁起のよい木とされ、平家ゆかりの地各地で植えられています。
現在も成覚寺は、平家ゆかりの場所として地域の人々に大切に守られています。
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