「広報津」平成24年10月16日/第164号(音声読み上げ) 歴史散歩(77)

登録日:2016年2月25日

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裏表紙

歴史散歩(77)

林の常夜灯

 伊勢別街道は、東海道関宿(亀山市)の「東の追分」を起点として、江戸橋の西詰めで伊勢街道(参宮街道)に合流するまでの延長約22キロメートルの街道です。この街道は江戸時代に、五街道以外の主要な街道である「脇往還」の一つとして整備され、京都方面から伊勢神宮へ参詣する人々が、この街道を盛んに往来していたことが知られています。「伊勢別街道」の名称が定着するのは明治時代になってからで、それまでは「いせみち」「参宮道」「山田道」などと呼ばれていました。
 応永25年(1418年)に、室町幕府4代将軍足利義持が伊勢神宮へ参詣した時の様子を記した花山院長親の「耕雲紀行」には、伊勢別街道のコースを通った記述があり、遅くともこのころまでには街道の原型が存在していたようです。
 この街道と県道津関線が交差する付近、現在の芸濃町はやしに常夜灯が1基建っています。常夜灯とは、夜道などの安全を確保するために、一晩中火をともしておく灯火のことで、林の常夜灯のように、伊勢神宮への参詣者のために建てられたものを参宮常夜灯といいます。
 この常夜灯の竿石[さおいし]には、「御神燈 右さんぐう道」「左り京道」「安永五丙申歳六月」と彫られていることから、道しるべを兼ねた常夜灯であったことが分かりますが、もともと現在の場所に建てられたわけではありません。その位置は転々と変わり、明治末期から5回も移動したことが伝えられています。もとあった場所は、竿石に刻まれた道の標示から推察して、北へ約500メートルのところにある国の登録有形文化財「旧明村役場庁舎」前の十字路の北東の角にあったと考えられています。
 地元の言い伝えによると、明治時代には集落の各戸が火打ち石を入れた箱を回し、輪番で毎夕この常夜灯をともしたといわれています。今では電灯がともされるようになり、この常夜灯は地元の皆さんの生活の中に息づいています。

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