「広報津」平成26年8月16日/第208号(音声読み上げ) 歴史散歩(99)

登録日:2016年2月25日

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歴史散歩(99) 

古代の土器生産 河芸地域の窯跡

 河芸地域から鈴鹿市南部にかけての丘陵に、須恵器と呼ばれる土器を焼いていた窯が40基程残る徳居[とくすえ]窯跡群があります。このうち、河芸地域では久知野や三行などの丘陵で12基の窯跡が確認されています。
 須恵器は古墳時代中期(5世紀前半)に朝鮮半島から日本へ伝来し、平安時代ごろまで生産された土器です。窯は丘陵の斜面を利用した細長いトンネルのような形をしていて、密閉された状態で焼かれるため、青灰色や灰色で硬質の須恵器が生産されました。
 窯跡群のうち最も古い窯は久知野にあった1号窯跡で、5世紀末から6世紀初頭ごろの須恵器が出土しています。
 また、三行にある12号窯跡は、地元では七ヶ谷窯と呼ばれています。昭和2年の調査によると、窯は北西を向いた、幅2.7メートル、高さ0.6メートルの規模で、林道を挟んだ北側には、窯から出た灰や不良品を捨てた灰原が広がっていたことが分かっています。この窯跡からは、最も古いもので7世紀前半の須恵器が出土しています。
 さらに、12号窯跡の南東約500メートルのところには10号窯跡があり、今年6月から7月にかけて発掘調査が行われ、12号窯跡と同時期の須恵器が多く出土しました。
 5世紀末から7世紀にははせ山群集墳をはじめ、市内には数多くの古墳が造られました。この時期の古墳には、供え物を入れるための容器として須恵器が納められています。また、須恵器は丈夫で保水性に優れていることから、集落では食器や水がめなどの貯蔵容器として使用されました。これらのことから、多くの須恵器が必要となり、須恵器を生産するための窯が多く造られたと考えられています。
 古墳時代以降、須恵器は日本人の生活に溶け込み、その製作技術は現在私たちが使用している陶磁器にも受け継がれています。
 夏休みのひととき、気軽に見学ができる12号窯跡を訪ね、古代のロマンに浸ってみてはいかがでしょうか。 


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