「広報津」平成26年12月16日/第216号(音声読み上げ) 歴史散歩(103)

登録日:2016年2月25日

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歴史散歩(103)

青巖[せいがん]寺

 いちし町小山の山麓にある青巖寺。寺伝によると、古くは紫雲山慈恩寺[しうんざんじおんじ]という名の密教寺院で、伊勢国司北畠氏の祈願寺でした。慈恩寺は戦国時代の戦火で荒廃しましたが、その後、名を改めて誓願寺として再興されました。現在の青巖寺という名前になったのは、元文4(1739)年と伝えられています。
 青巖寺には多くの文化財が残されていて、その中でも青巖寺本堂、木造阿弥陀如来[あみだにょらい]立像、青巖寺古文書、絹本著色仏涅槃図[けんぽんちゃくしょくぶつねはんず]、絹本著色聖徳太子及び浄土高僧連坐[れんざ]像の5件が市指定の有形文化財になっています。
 青巖寺の境内へ続く石段を上ると、正面に本堂が見えてきます。慶安4(1651)年11月に尾張徳川家2代徳川光友の三男松平義昌が青巖寺で誕生したことから、元禄5(1692)年、光友によってこの本堂が建立されました。建坪は90坪余りで総ひのき造り、内陣の漆箔[しっぱく]円柱は上部から全て極彩色が施され、豪華絢爛[けんらん]な元禄時代の建物の特色を示しています。本尊の木造阿弥陀如来立像は、像高77cm、材質はヒノキで構造は寄木造[よせぎづくり]、端麗な姿をしていて、作風から制作は鎌倉時代と考えられています。
 青巖寺古文書は2通あり、1通は天正12(1584)年4月17日のものです。天正12年は本能寺の変から2年後に当たり、全国的に混乱が続く中、この地域では戸木の木造氏を豊臣秀吉方の蒲生氏郷[がもううじさと]が攻める戸木城籠城戦が行われていました。この文書は蒲生氏郷方の与力であった沢氏と秋山氏が、味方の軍勢に小山の郷の住民に対して乱暴、狼藉[ろうぜき]をしないように指図したものです。もう1通は、関ケ原の戦いの前哨戦とされる津城攻めをおこなった西軍石田三成方の諸将が、津城落城の翌日、慶長5(1600)年8月26日に青巖寺に宿泊した際に、小山の安全を守るため部下に禁止行為を示した文書です。
 絵画の絹本著色仏涅槃図は、釈迦が亡くなった時の様子が絹の布に描かれているものです。また絹本著色聖徳太子及び浄土高僧連坐像は、画面上部に聖徳太子と4人の侍臣が、下部には僧侶11人が描かれています。
 これら市指定有形文化財の他にも、境内を見渡すと尾張徳川家とのゆかりを感じ取れる三葉葵[みつばあおい]の紋が入った本堂の鬼瓦や、松平義昌が青巖寺で誕生した時に使ったとされる産湯井を見ることができます。
 このように現代に伝えられる貴重な文化財からは、日本の歴史に大きく関わる事象がこの地域にも影響を及ぼしていたことが分かります。境内にたたずんで、歴史の大きなうねりに思いをはせてみてはいかがでしょうか。

 

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