「広報津」平成27年1月16日/第218号(音声読み上げ) 歴史散歩(104)

登録日:2016年2月25日

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歴史散歩(104)

川口井[かわぐちゆ]旧跡

 昭和9年に白山町南家城と対岸の二俣地区などを結ぶため、雲ず川に架けられた二雲橋[にくもばし]。この橋から川原を見下ろすと、川の流れに沿って岩盤に溝が掘られていることに気が付きます。これは、江戸時代に南家城村から隣の川口村に水を引くために作られた川口井と呼ばれる用水路の名残です。
 江戸時代の人々にとって、田畑に安定して水を引くことはとても重要であり、当時の津藩・久居藩・紀州藩は互いに協力しながら各地に用水路を整備していました。その中の一つが、寛文4(1664)年に津藩の郡奉行であった山中為綱[やまなかためつな]の指導によって作られた川口井です。この川口井は、二雲橋から約450メートル上流にある岩船(笠石)と呼ばれる大きな岩の辺りに取水口があり、ここから分岐した水は雲ず川沿いに掘られた水路を通って家城神社の裏手へと流れ、川口村まで水路が続いていました(地図の点線部分)。しかし、川原に作られた水路は大水が出るたびに井溝が破損したため、享保14(1729)年に取水や井溝の一部を南家城村のために作られていた南家城井(地図の緑線部分)と共用することになり、家城神社の地点で南家城井と川口井が接続されました。そうして、取水口(岩船)から神社までの井溝は使用されなくなったものと考えられます。
 わずか65年ほどでその役割を終えた川口井旧跡ですが、岩盤を掘り込んで溝が作られているため、二雲橋より上流側では現在でもその痕跡をはっきりと見ることができ、現地で計測してみると、溝の幅は約2メートル、深さは0.8メートルほどあります。そして、自然の地形を巧みに利用して溝が作られていますが、溝に沿って柱穴[はしらあな]が並んでいる部分も複数あり、必要に応じて水路の壁を作っていたことも分かります。
 大切な水や用水の管理をめぐって南家城村と川口村の間では多数の水利関係文書が作成され、その一部は現在も大切に保管されています。また、接続された南家城井と川口井(現在の南家城川口井)は、何度かの改修を経て現在も家城・川口地区の大切な用水としてその役割を果たしています。平成18年には「全国疏水百選」に選ばれるなど、日本の農業を支えてきた代表的な用水の一つとして評価されました。硬い岩盤を掘り込んで作られた川口井旧跡の遺構からは、安定した水を求めた当時の人々の苦労がしのばれます。


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