「広報津」平成27年2月16日/第220号(音声読み上げ) 歴史散歩(105)

登録日:2016年2月25日

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裏表紙  

歴史散歩(105)

美杉ふるさと資料館の銅鐘[どうしょう]

 美杉町かみたげの美杉ふるさと資料館に、津の鋳物師[いもじ]辻種茂が作った銅鐘が展示されています。
 この銅鐘が所蔵された経緯は、はっきりとは分かっていませんが、かつて火の見櫓の半鐘(火災や洪水などの災害時に打ち鳴らして住民に危険を知らせたもの)として使用されていたと言われています。その名残なのか、龍頭と呼ばれるつり手の部分には、今も赤いペンキの跡があります。
 この銅鐘は高さ約66cm、口径約38cmで、梵鐘[ぼんしょう]としては小ぶりのものです。鐘上部の龍頭は双龍で中央に宝珠を頂き、鐘を突く部分の撞座[つきざ]は複弁8葉の蓮華文[れんげもん]で、中心には9粒の蓮子[れんし]を鋳出しています。鐘身に明和5(1768)年の年号や「勢州いちし郡竹原持経村持経山三光院真福寺」「金百疋 先祖菩提 法誉」「勢州洞津住 辻越後藤原種茂作」などの銘文が刻まれていることから、もとは美杉町竹原の真福寺の銅鐘で、供養のために作られたことが分かります。
 作者の辻種茂は、祖である辻越後守家種から数えて6代目、江戸中期に活躍した鋳工です。子午[とき]の鐘(久居幸町)をはじめ、加良比乃神社の銅灯籠(藤方)など、種茂の作品は県内各地に数多く残っています。
 鐘身に刻まれている「竹原持経村」は、現在のJR伊勢竹原駅辺りの集落で、真福寺は昭和11年に持経から雲ず川の対岸へと移転しています。昭和30年に刊行された「いちし郡史」には、真福寺のページに明和5年銘のこの銅鐘が記載されています。しかし、現在、真福寺本堂の軒先には、銘文のない銅鐘が懸かっていて、この明和5年銘の銅鐘が寺から離れることになった理由については、「いちし郡史」に記載はなく、寺にも近隣にも伝わっていません。
 この銅鐘が寺から離れた原因として考えられるのが、戦争時の武器生産に必要な金属の不足を補うため、昭和16年8月に出された金属類回収令による供出です。当時、どの寺院から梵鐘が供出されたのかを記録した資料はありませんが、辻越後家が製作した梵鐘には、その歴史的価値の高さから供出を免れた例もありました。そこで、梵鐘の供出を一時延期するべきかどうかを選別するための昭和17年の調書「三重県梵鐘調査書」(三重県所蔵)を調べてみましたが、この銅鐘の記載はなく、残念ながら戦中の供出との関わりを明らかにすることはできませんでした。
 この銅鐘がどのような経緯で、火の見櫓の半鐘として利用されることになったのかは定かではありませんが、そのおかげで、今日まで失われることなく、資料館へと伝わってきました。この銅鐘に秘められたドラマを想像しながら、歴史ロマンを感じてみませんか。

美杉ふるさと資料館

 入館無料
 開館時間 9時から17時(入館は16時まで)
 休館日 毎週月曜日(月曜日が休日の場合は翌日)12月28日から1月4日


 

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