粉引茶碗 銘「雪の曙」 (個人蔵・便利堂撮影) |
陶芸家、あるいは趣味人として広く知られる川喜田半泥子が亡くなって、40年の歳月がたつ。
絵画、俳句、写真など多彩な趣味を持ち、幅広い創作活動を展開した。型にとらわれない、自由でおおらかな作風は、半泥子の人柄そのものといわれる。中でも、陶芸においては、趣味の域を超えた独自の世界を構築し、人々を魅了し続ける。 その作品にあふれる「遊び心」は、どこからきているのであろうか。
千歳山の泥仏堂でろくろをひく半泥子 (昭和15年ごろ)(石水博物館提供) |
明治11(1878)年、川喜田久太夫家15代の長男として半泥子は生まれた。本名は川喜田久太夫政令、幼名を善太郎と称した。川喜田家は寛永年間(1624~1644年)に創業した木綿問屋で、伊勢国に本拠を置き、江戸大伝馬町に江戸店を持つ豪商であった。
しかしながら、幼いころの半泥子は幸運ばかりではなかったようである。祖父・父の相次ぐ死去により1歳で家督を相続、母とも別れた半泥子は祖母政子から教育を受けて育った。政子の勧めもあり、幼少期より禅道に入って学ぶが、それが後の人生に大きな影響を与えたようである。
25歳で百五銀行取締役に就任した半泥子は、その後も百五銀行頭取ほか数々の企業の要職をこなし、また三重県議会議員、津市議会議員として、経済・政治など幅広い分野で活躍している。
多忙な日々の中で、青年時代より芸術に関心を寄せていた半泥子は、茶道、油彩画、日本画、俳句と、その多芸ぶりを発揮していった。
陶芸については、子どものころから焼き物が好きだったようであるが、本格的に始めたのは還暦近くになってからという。
昭和初期には、自宅のある千歳山に初めて小さな登り窯を築き、若き陶工らと交流し、研究と修練を重ねている。戦後は、津市郊外の長谷山中腹にある広永に窯を移して会社組織とし、弟子たちと共に作陶を楽しんだようである。
半泥子という号は「半ば泥みて半ば泥まず」という意味があり、全てに熱中する半泥子のことだから、家をつぶしてはならないと、全て半ば泥むがよかろうと、禅の師が命名したという。師の教えは、その人間性にも反映され、生み出された作品には他のものにはまねできない、絶妙なバランスと間があった。
このような創作活動のほか、半泥子が力を尽くしたことに、地域文化の振興がある。昭和5(1930)年には財団法人石水会館を設立し、さまざまな事業を手掛けている。教員の海外視察派遣や小児健康相談などの教育・福祉事業をはじめ、大・中ホール、テニスコートなどを市民に開放して、美術展、講演会、音楽会、映画会、演劇などの文化事業も行っている。
あらゆる分野で活躍した半泥子であったが、昭和38(1963)年10月26日、老衰のため84歳で亡くなった。
千歳文庫(この施設は非公開) |