真福院(美杉町三多気)に残る歌碑 |
江戸時代、津で蘭方医として名が知られていたのが、4代続いた八町の越村家で、代々図南と名乗った。
初代の図南は、通称深蔵、字は士虚、号を図南または幽蘭斎と称した。もともと越村家は、代々漢方医であったが、当時江戸で蘭学が盛んになりつつあることを知り、江戸に遊学し有名な杉田玄白、大槻玄沢について、蘭学を学び、帰郷して津で開業した。これが、津地方最初の蘭方医の誕生だった。開業後は、とにかく患者が多く訪れ、大変繁盛したといわれている。また、四日市や一志郡太郎生村(現美杉町太郎生)、名張にも出張診療所を設け、蘭方の普及を図った。晩年は家業一切を2代図南に譲り、大和十市郷(現奈良県桜井市・当時藤堂藩領)に移り、その地で蘭方を普及させるが、文化11(1814)年没した。
2代図南は、天明4(1784)年に生まれ、通称大輔、字を淳伯、図南および幽蘭斎の号は継いでいる。初代図南である父に医学を学び、長崎にも遊学している。2代図南の業績には、著書の刊行が挙げられる。
文化9(1812)年刊行の「撮要十術」は、応急処置のパンフレットで、蘭方を広める目的で、一般に配布したものとされている。当時舶来した「外科書」の翻訳書ダイジェスト版ともいえるもので、津地方最初の蘭方医学書となった。この書の著者は、初代図南とされているが、2代の著ではないかと推定されている。
そして、越村家で最大の出版となったものは、文政3(1820)年に刊行した「瘍科精選図解」である。これも舶来の外科書翻訳本で、表紙には原著者名と原書名がローマ字で浮き彫りされている。この書は上下2巻からなり、上巻は原本からの図譜で、下巻はその図の解説となっている。上巻は当時最新の外科図で、輸血法を初めてわが国に紹介したものや、乳がん手術の図なども載せている。この書は、外科器械手術の材料、手術図など手術内容が分かりやすく理解できて、当時わが国の外科医学に大きな影響を与えたものとされる。その2代図南は、文政9(1826)年12月に没している。
文化9(1812)年刊行の「撮要十術」 個人蔵 | 文政3(1820)年刊行の「瘍科精選図解」 個人蔵 |
3代図南は、一志郡太郎生村の中埜淳良が養子になり越村家を継いだ。中埜淳良は、初代図南の門人で、代診も務めていた人物である。弘化2(1845)年には、津藩の侍医となり、嘉永7(1854)年2月に没している。ちなみに、初代図南は美杉町にも診療所を設けて縁もあることからか、現在も美杉町三多気の真福院には、越村が建てた歌碑が残っている。
4代図南は、3代図南の二男で父の名を継いで淳良といい、号は幽蘭斎を継いでいる。医学はもちろんのこと、文学にも精通した人物であったといわれている。天保3(1832)年生まれで、津藩の侍医となり慶応2(1866)年35才で没した。そして、5代以降は、医者を業とせずに薬局となった。
ともかく、越村家は津地方初の蘭方医としてだけでなく、蘭方普及のための診療所の設置や当時の江戸・大阪などで出版された書物とそん色のない出版物の刊行を行い、藩医として侍医としても活躍したのである。 越村家の墓は、宗宝院(上浜町六丁目)墓地にある。 |
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宗宝院墓地にある越村家の墓 |