長谷川素逝

登録日:2018年8月3日

津の生んだ俳人 長谷川素逝

俳誌「阿漕」の画像

俳誌「阿漕」

阿漕浦の岩田川寄り、ヨットのマストが林立している伊勢湾海洋スポーツセンターの前の海岸堤防の所に、わりあい大きな石碑が立っている。これが津の生んだ、全国的にも有名な俳人長谷川素逝の句碑で、次の句が刻まれている。

遠花火海の彼方にふと消えぬ

この句は、昭和10年7月下旬に詠まれた。その当時、津中学校の国語教師をしていた素逝は、夕方から乙部の自宅に集まってきていた俳友たちと、夫人と妹さんを伴って、涼を求めて海の方へ散歩に出掛けた。贄崎海岸から新堀に出て、そこの渡しで岩田川を渡って、阿漕浦へ出た。浜辺を歩くうちに、暗い海の彼方に遠く花火の上がるのが見られた。音もなく、ふと消える遠花火の風情を素逝はそう詠んだ。このエピソードは、俳友七里夏生氏の直話による。

素逝長谷川直次郎は、明治40(1907)年大阪に生まれた。父が大阪砲兵工廠の技師だったからで、本籍は津市。大正4(1915)年、父の退職によって津に帰り、養正小学校に転入。津中学校を経て、京都の第三高等学校文科入学、俳句を田中王城・鈴鹿野風呂に師事した。昭和4年、「京鹿子」(野風呂主宰)の同人となり、「ホトトギス」初入選は昭和5年。昭和7年、三島重砲連隊幹部候補生として入隊している。除隊後、津の自宅に帰り、母校の関係で「京大俳句」の創刊に参加し、一方地元三重の俳句の振興を目指して俳誌「阿漕」を昭和8年創刊、主宰した。昭和9年4月、京都伏見商業学校の教員となるが、その9月津中学校の教員となって津に帰った。ところが、昭和12年中国との戦争が始まると程なく砲兵少尉として応召。昭和13年12月、病を得て入院、内地送還となった。翌年、その間の句を収録した句集「砲車」を出版してその名をうたわれた。

その後は、病を癒やしながら句作に励み、句集「三十三才」「ふるさと」「村」「暦日」と編んでいく。その静寂な自然凝視の句は、「ホトトギス」を通じて全国の俳人たちに親しまれた。落葉を詠んだ句が多かったので、"落葉リリシズム"ともいわれた。一時、甲南高等学校教授となったこともあったが再入院し、戦後は各地に転地療養したが、ついに昭和21年10月10日、旧大里陸軍療養所で没した。享年わずかに40歳であった。

高浜虚子は、その死をいたんで、「まっしぐら炉に飛び込みし如くなり」の句を寄せた。

長谷川素逝の句碑の写真
俳人 長谷川素逝の句碑

 

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