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藤堂高虎は、弘治2年(1556)に、近江国犬上郡藤堂村(現在の滋賀県甲良町)に、郷士であった虎高の子として生まれました。高虎は、幼いころから人並み外れた大きな身体と勇猛果敢な性質で、初めて仕えた主君浅井長政のもとで、姉川の戦いに足軽として初めて戦いに参加しました。その後、主君を替えて渡り歩いたあと、羽柴(豊臣)秀長に見込まれて、300石で召し抱えられると、多くの合戦で顕著な戦功を挙げ、主君の全幅の信頼を得て活躍しました。秀長亡きあとは豊臣秀吉に仕え、秀吉亡きあとは徳川家康に仕え、武功で主君に信頼を得るとともに、築城技術の名手としても主君から全幅の信頼を得て、大いに活躍しました。中でも、徳川家康には側近として仕えて、常に家康に重用され、関ヶ原の戦いおよび大坂の陣において著しい戦功を挙げて家康の信託を決定的にしました。そのため、外様大名でありながら、徳川幕府を支える重鎮として、慶長13年(1608)に、家康から伊勢国の一部、伊賀国一円の領主として命ぜられて、初代津藩主となり、最終的に32万3,950石の大名に上り詰めました。以後、津藩は明治維新まで改易されることなく、260年間続きました。
その後、高虎は二代将軍 秀忠の末娘で、正室 江(お江与)の娘でもある和子を天皇家に嫁がせるなど幕府の体制整備に尽力し、老後にあっても自国にいる暇もなく東奔西走していましたが、さすがに病気には勝てず、寛永7年(1630)10月5日、江戸の藤堂藩邸でその生涯を終えました。享年75歳でした。
津城は、当初織田信長の弟・織田信包が、伊勢上野城主であったとき、安濃津の地に元亀2年(1571)から、安濃津城として築城を開始し、天正8年(1580)に、五層の天守を建てて完成しました。その間には、伊勢上野城で信包の世話になっていた信長の妹・お市とその娘・茶々、初、江の三人姉妹も、信包とともに安濃津城に移り、本能寺の変が起った天正10年(1582)まで、安濃津城で暮らしていたという説もあるほか、信包の生母・土田御前が、信包に引き取られて天正18年(1590)から病没する文禄3年(1594)まで、安濃津城で暮らしていたとも伝えられています。
その後、信包は近江国へ転封させられ、代って文禄4年(1595)に富田氏父子が安濃津城へ入城し、のちに富田信高が城主となりました。富田氏は秀吉に仕えていましたが、関ヶ原の戦いの前に徳川方へ就いたため、津城は、関ヶ原の戦いの直前に、毛利秀元を総大将とする約3万人の西軍勢に攻められました。それに対して城に立て籠って、津の住民も多数参加する籠城戦を行いましたが、信高は城を明け渡して、剃髪して専修寺に籠り合戦を終えました。その後、関ヶ原戦で東軍が勝利すると、信高は再び安濃津城主に返り咲きましたが、慶長13年(1608)に家康の命で、城主が藤堂高虎に代わり、以後、藤堂家が伊勢国の一部、伊賀国一円の領主となり、明治維新まで続きました。
現在の津城跡は、信包が築城した城郭を高虎が慶長16年(1611)に大改修したもので、明治維新後、建物はすべて取り壊され、城郭も外堀のすべてと内掘の大半が埋め立てられ、本丸と西の丸の石垣と郭が残り、内堀は北と西に当時の半分ほどの幅に狭められて残っています。
現在の津城跡(東から撮影) 写真提供 三重県 |
津城跡は市の中心部にあり、市民の憩いの広場として親しまれています。現在は本丸と西之丸、内堀の一部が残り、お城公園として整備されています。平成17年3月、県指定史跡に指定されました。
「県指定史跡 津城跡」の詳細は、生涯学習課のページをご覧ください。
この模型は、津城の本丸と西之丸を100分の1のスケールで復元したものです。 |
詳細は、津城 本丸・西之丸復元模型(PDF/306KB)をご覧ください。 |
この構造模型は、津城の丑寅三重櫓を10分の1のスケールで制作したものです。 |
詳細は、津城丑寅三重櫓構造模型(PDF/293KB)をご覧ください。 |
藤堂高虎公が津城の大改修を行い、津城の拡張整備と城下町の整備に着手したのは1611年で、現在の津市中心部の街並みの基礎を築き、その骨格がほぼ完成した年と言われています。
しろうをしろう!講演会は、藤堂高虎公の偉業を広く知っていただき、城について考えるきっかけとして開催しました。(主催:津市 後援:NHK津放送局)
左から三浦正幸教授、前葉市長、シロモチくん、石原良純氏、ゴーちゃん、藤堂とらまる |
第1部 石原良純氏の講演 |
第2部 広島大学大学院 三浦正幸教授の講演 |
第3部 三浦正幸教授と石原良純氏による対談 |
開催日 平成24年2月19日(日曜日)14時~16時30分
会場 津市センターパレスホール(津市大門7-15 津センターパレス5階)
入場料 無料(往復はがきによる事前応募制)
内容
第1部 講演1 講師 石原良純氏(俳優) 演題「城について想う」
第2部 講演2 講師 広島大学大学院教授 三浦正幸氏 演題「日本一の築城家「藤堂高虎」と日本城郭の規範「津城」」
第3部 石原良純氏および三浦正幸氏による対談
藤堂高虎が築城の名手として、縄張りしたり普請をしたりした城は全国で20余といわれています。高虎の築城術は、豊臣秀吉からも徳川家康からも高い評価を受けました。高虎の城づくりは、高い石垣と広い内堀を造って、平城でも固い防御の城造りを確立したほか、同時に城下町の整備を行って、住みやすく繁昌するまちづくりをしました。いわばまちづくりの名人でもありました。津城と津城下町については、まず城は、本丸、内掘、二の丸、外堀を回の字のように巡らした輪郭式という典型的な近世城郭様式とし、内掘を80~100メートルにしました。城下町は、西側、南側と北側半分を武家屋敷とし、東側と北側半分を町民のまちとしました。そして、町民のまち中に、それまで通っていた海岸沿いの参宮街道のルートを変更して、伊勢神宮参拝者や津観音の参拝者で賑わうようにして、宿場町としての繁栄を図りました。
百ケ条とは、藤堂高虎が生前に残した数々の教訓を、家臣が書き留めていたものをまとめた「公の御遺訓あり」という遺訓集で、遺訓が二百あることから、「高山公遺訓二百ケ条」といいます。この遺訓は、経世に長け、人情が厚く、人を使う術に優れた高虎の考え、人柄が分かりやすく示されており、人間としての心構えを説き、現代の政治家、経営者、管理者が、人を導き、使う上で通用する貴重な遺訓と言えます。ここにその一部を紹介します。
藤堂高虎が、足軽のころに主君のもとを飛び出し、放浪していました。
三河国吉田宿(現在の愛知県豊橋市)へ差しかかったとき、街道沿いに餅屋を見つけ、あまりの空腹に、銭がないのに餅を注文して、ぺろりと平らげました。食べ終わってから、高虎は店の主人に、無銭飲食であることを正直に白状して謝りました。ところが店主は、寛大な慈悲のある人で、無銭飲食をとがめるどころか、餅を土産として高虎に与え、支払は出世してからでよいと言って許しました。これに感激した高虎は、礼を言って立ち去りました。のちに大名に出世した高虎は、「白餅」を「城持ち」にかけて、藤堂家の旗印「白もち三つ」としました。大名になってから高虎は再び吉田宿を訪れて、餅屋の店主に丁重なお礼をしました。この逸話は、文献資料には明記がありませんが、藤堂藩家老の中川蔵人の日記に記されています。
弘治2年(1556)
近江国犬上郡藤堂村(現在の滋賀県甲良町在士)に、父虎高の二男として生まれる。
元亀元年(1570)
最初の主君浅井長政に仕えて、姉川の戦いに足軽として初陣で参戦する。以後主君を三回替える。
天正4年(1576)
羽柴(豊臣)秀長に、300石で召し抱えられる。以後戦功を挙げ、禄高を増やす。
天正15年(1587)
2万石の紀伊粉河領主となり、初めて大名となる。
4年後秀長が没し、後継者秀保の後見人となる。
文禄4年(1595)
秀保が変死し秀長家が取り潰しとなって、藤堂高虎は高野山へ隠遁するが、豊臣秀吉の懇請により、高野山を下りて秀吉の臣下となり、伊予三郡の7万石の領主となる。
慶長3年(1598)
豊臣秀吉が死去したため、徳川家康に仕える。
慶長13年(1608)
関ヶ原の戦い後、大坂包囲網の要地として、徳川家康の命で、伊勢国の一部・伊賀国一円の領主を命ぜられ、初代津藩主となる。伊予と合わせて22万3,950石となる。
慶長16年(1611)
津城の大改修に着手し、津城の拡張整備と城下町の整備を行う。
慶長20年(1615)
大坂夏の陣に従軍、戦功により5万石加増。
元和3年(1617)
5万石加増で32万3,950石、津藩の石高確定。
寛永7年(1630)
江戸の藤堂藩邸で波乱に満ちた生涯を閉じる。享年75歳。
藤堂高虎が豊臣秀吉から拝領した兜。兜鉢と平ら小札を紐でおどした兜は、いずれも錆下地黒漆塗りで、兜鉢の頂上部に木製錆下地黒漆塗りの巾子を装着する。近世初期には、従来の黒兜や筋兜の形態と全く趣を異にした新形式の兜が流行し、戦陣での奇抜さを競うようになり、この兜も異形兜と呼称される変わり兜の典型的な例である。
藤堂高虎公がまだ若く貧しい頃、餅屋の主人に恩を受け、「人の情けを忘れないように」とのことから、藤堂家の「白い三つ丸餅の旗印」が作られた。シロモチくんはその旗印から生まれた精霊であり、高虎公が、津に入府して400年にあたる2008年に現れました。その後、津市のやさしい人たちや、おいしい食べ物がとっても気に入って、津市の情報発信のためにずっと津市に住むことになりました。