「広報津」第267号(音声読み上げ)表紙

登録日:2017年2月1日

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表紙

出来栄えに、うっとり ジャンボ干支、完成!

2月下旬まで辰水神社の潜り門に設置

写真 地元ボランティアのふるさと愛好会が作るジャンボ干支は、今年で32作目。多くの人が訪れる新年の風物詩に(12月29日美里町家所)

第30回市長対談 高虎公のまちづくり 人づくり

直木賞作家 安部龍太郎さん、津市長 前葉泰幸

平成28年11月5日、第9回高虎サミット イン津にパネリストとしてご登壇いただいた直木賞作家の安部龍太郎さんをお迎えし、初代津藩主・藤堂高虎公のまちづくり、人づくりについて前葉泰幸市長がお話を伺いました。

槍働き、為政者、築城家 どれをとっても超一流

市長 高虎公の生涯を書きつづった小説、安部龍太郎先生の下天を謀るが新聞紙上に連載されたのが平成20年でした。その時に行った講演会にご登壇をいただき、さらに前回の第5回高虎サミット イン津にもご参加いただきました。高虎公を語っていただくのは安部先生をおいて他にいないということで、今回も大変お忙しい中、駆け付けてくださいました。まずは津市の印象をお聞かせ願えますか。

安部 下天を謀るを執筆する際、最初に津に取材に来ました。うなぎが大変おいしかったのをよく覚えています。それから津城に行き、堀を広くとった海城を実際に見て本当にすごい城だと感じました。この城がなぜつくられたのか。大坂の陣(江戸時代初期の合戦)を前にして、徳川家康は東国の物資を関西に送るときに、まず、すんぷ(駿河国の都市)の清水港から津まで海運で輸送し、津から伊賀上野城まで陸路で運ぶという戦略を立てていました。津は最も重要な場所だったといえます。

市長 清水と津の間で船が行き来していたのですね。津の港については、関西と関東地域を結ぶ物流の拠点として、家康公がおそらく開発されたルートだったと思うのですが、高虎公についても全国各地にそのようなまちづくりの歴史が残っています。あまたある高虎公ゆかりの地をつなぎ交流を深めようと高虎サミットが2年ごとに開催されているわけですが、これまで第6回目の甲良町、第8回目の今治市でも講師として登壇された安部先生は、高虎サミットについてどのようにお感じですか。

安部 まちに多くの人が集まってお祭りのような感じでしたし、どの会場も大変な熱気があって、高虎公に対する親しみと尊敬の気持ちが強く伝わってきました。高虎公の知恵に学んで、地域を活性化したい、起爆剤にしたいという思いが非常に強く感じられましたね。

市長 高虎公は、為政者として非常に目が届いたまちづくり、配慮の行き届いた治世をしておられたと感じます。今の津市に目を移しますと、誕生して10年になる新津市のエリアの中で藤堂藩である津藩、久居藩があって、紀州藩の領地が一部あります。これを落とし込んだ地図を見ると結構入り組んでいることが分かります。

安部 紀州藩がこれだけ入り組んでいるのは不思議ですね。

市長 徳川御三家の紀州藩なので、高虎公と家康公の深いつながりが当時の領地にも表れてきているのかもしれませんね。それぞれの地域がどのように結ばれていたかというと、伊勢街道、伊勢別街道、伊賀街道、奈良街道、初瀬街道、それから伊勢本街道がダイレクトに伊勢神宮の方に結ばれて、香良洲には香良洲道というふうに7つの街道が通っていました。江戸時代、あるいはそれ以前からもこれらの地域がつながっていたとも言えるのではないでしょうか。(三重県史 資料編 近世2付録 基図より)

安部 素晴らしい地図ですね。一目でよく分かります。

市長 城づくりというテーマから見てみますと、高虎公は1608年に初代津藩主として入府したとき、津城の大改修に取り掛かります。お城と共にまちの整備にも着手し、もっと海側を通っていた伊勢街道を、お城の側に引き込み、いわば街道を中心とした宿場町を展開しました。人々の流れ、物流を変え地域経済の活性化を図りました。

安部 伊勢は津でもつ、津は伊勢でもつという言葉がありますが、伊勢街道を今の津観音の前まで引き込んで、ちょうどお城の前を通る道をつくり、伊勢と津を結び付けて相乗効果を生んでいったのですね。江戸時代になると、庶民の娯楽とか旅はほとんど信仰に関わるものでしたから、今でいうレジャーの旅が、昔は信仰の旅と同じ意味を持っていました。幕府や各藩も他所に出掛けるという者には非常に監視が厳しかったのですが、お伊勢参りに行くというとすぐに通行手形が出るような時代でした。おそらく高虎公はやがてそういう時代が来ると見越して、津観音と伊勢神宮を結び付けるという方策をとられたのではないでしょうか。

市長 実は私は、旧町名 宿屋町というところで育ったのですが、ちょうど津観音から大門、中之番、宿屋町、地頭領、分部町と街道沿いにまちが並んでいて、寺や神社参りをする道すがら発展してきたのが津のまちだと思います。

秀吉や家康に頼りにされる戦国期を通して稀有な存在

市長 さて、高虎公の魅力というと戦が強い、あるいは城づくりの名人とも言われますが、安部先生はどのようにお感じですか。

安部 一言でいうと求道心ですね。道を求めてひたすら努力を続けていく姿勢の明確さと強さです。高虎公はいわゆる槍働きをしても、一流だった人です。身長が190センチメートル近くあって、例えばプロ野球で言えば三冠王を何度もとるようなプレーヤーだったわけです。普通ならそこで慢心して、ただの武辺者として終わりがちですが、高虎公はその上で大名にもなって、為政者としても力量を発揮していく。築城家としても一流です。今治城とか津城を見てみますと、それまで海沿いに城をつくるという発想はありませんでした。

市長 だいたい山の方ですね。

安部 当時の水運、海運を考えれば、どうしても海の拠点となる城が欲しかったんですね。湿地帯に松の木のパイル(杭)を打ち込んで、その難事業を見事にやり遂げました。松やにが出ますから、時間が経っても水分で腐食しにくい性質を利用して地盤整備を行ったのです。その上で、今治城や津城のような幾何学的な城を日本で初めてつくった人物です。

もう一つは、それまでの城は、安土城などもそうですが、普通の屋根に見張り台を付けた、いわゆる、ぼうろう型というものでした。そういう城の形から、姫路城などのような、そうとう型といって、升を何段も重ねたような形の城に変えたのも高虎公です。そういう築城家としての先見の明、新しい技術の開発という点でも卓越していますし、その後も、彼は水軍を養成します。紀州にいたときは紀州水軍、熊野水軍を養成し、今治に行っても同じですね。やがて朝鮮出兵の際は、豊臣秀吉から水軍大将に任じられます。現代で言えば海軍大臣のようなものですね。家康公の時代になると、天下を謀るための参謀に任じられる、いわば知恵袋です。そんなふうに成長していった武将は、戦国時代を通して本当にまれで、素晴らしい人物だと思います。

市長 偉大な人物ですね。武将として、為政者として、さらに今回は文化の面にもスポットライトを当てようということで、人間関係をひも解いていきますと、こぼりえんしゅう につながります。いわば義理の息子に当たりますが、こぼりえんしゅう は大名でもありますし、武将でも為政者でもあり有名な文化人でもあります。

安部 こぼりえんしゅう は遠州流茶道の、優れた茶人の一人です。実は私も、やぶのうち流を学んでいますが、当時の大名たちは茶道を通して文化的素養を磨いていました。単にお茶室の中だけではなく、数寄屋造りの建物も、周囲の庭も、使われる茶道具、掛け軸など、全ての総合芸術です。こぼりえんしゅう はそういったものをしっかりと学んだ先達であり、優秀な官僚でもあり、普請(道・橋・水路・堤防などの土木工事、建築工事)を指揮する普請奉行でもありました。

市長 庭も有名ですね。

安部 えんしゅうりゅう というのは至るところにありますからね。

市長 高虎公のもとに能力のある人間が集まってきたのは、高虎公がそういう人をつくっていったのか、あるいは自然な形でつながりができたのか、高虎公はどのようにいろいろな人物と関係を築いていったのでしょうか。

安部 一番大きいのは、豊臣秀長(豊臣秀吉の弟。大和・和泉・紀伊3国を治めた)だったと思います。高虎公は大和郡山百万石の大名であった秀長の家老でした。その家老時代につくった人脈、特に せんのりきゅう (戦国時代から安土桃山時代にかけての茶人)との関係ですね。例えば、おおともそうりん(豊後国を治めた戦国大名)が大坂城に行ったときに、秀長が、内々のことは利休が仕切っているし、外のことは私が仕切っているので、安心してくれと話したという記録がありますが、それぐらい秀長と利休の仲は親しかった。

そのすぐそばに、高虎公もいたわけです。そこには文化人からお公家さんまで、いわゆる政権中枢の人脈がありました。その多彩な人脈とお付き合いすることで多くを学んでいきました。秀長が亡くなった後に大和郡山百万石は取り潰され、高虎公は抗議の意味で高野山に入るのですが、その才能を惜しんだ秀吉が呼び戻して宇和島で7万石を与えるわけですね。おそらく高虎公が築いた人脈の広さが生きていたのだと思います。

手本を示して細かく指示 誰からも慕われる大親分

市長 宇和島市長ともこの後お目に掛かりますが、そういうつながりも今の世に遺産として残していただいているのかもしれません。高虎公は城づくりだけではなく人づくり、要するにハードだけではなくてソフト面にも心を砕いてこられた人物だと思います。知られざる高虎公の一面など先生はたくさんご存じだと思いますが、この場でも少しお話しいただけますか。

安部 やはり高虎公が人を育てたというよりは、高虎公を見て、人が育ったという感じが強いですね。それほど才能があって、人柄も良くて、志もしっかりした人でしたから。しかも自ら手本を示して、こうするんだよと教えられる人だった。口だけで言っても人は従わないですからね。例えば城をつくるときでも、ちゃんと自分で設計図を書いて指示しています。ここの石垣の角度は何度にする、ここにはどういう石を使いなさい、ぐりいし(石垣の内部に積む小石は)どれぐらい使うのかなど、明確に細かく指示できる人でした。こぼりえんしゅう が名古屋城の普請奉行をしていたときなど、なかなかはかどらない工事に業を煮やした こぼりえんしゅう が、高虎公に宛てて手紙を送っています。その中に、全くこのままではどうしようもない。だから早くあなたが来て、現場で指揮を執ってくれないと、物事が解決しないと書いています。それぐらい頼りにされる兄貴分であり、大親分であった、そういう力を持っていた人なのです。

市長 改めて高虎公の偉大さ、人物の大きさ、そして能力を感じるお話をいただきました。それでは最後に安部先生の気になる次回作についてぜひご紹介いただけませんか。

安部 実をいうと、今、家康公を主人公にした5部作に取り掛かっています。おそらく10年ぐらいかかると思いますが、なぜ書く気になったかというと、この下天を謀るを執筆した中で、高虎公がいかに家康公に心服して、信頼していたかということがよく分かったんですね。家康公自身も高虎公を右腕のように頼りにしていた。高虎公ほどの人物が心服した家康公というのは一体どんな人間だったのか、猛烈に興味が湧いてきまして、実際に家康公を書くことで自分の中の疑問を解決したいという思いで、これから10年ほど家康公の小説に取り組もうと思っているところです。

市長 なるほど。家康の内面に迫るような小説を、皆さん読みたくなったことでしょう。私もワクワクして次回作をお待ちしたいと思います。

直木賞作家 安部龍太郎さん

1955年、福岡県生まれ。著作に、彷徨える帝、関ヶ原連判状、信長燃ゆ、恋七夜、下天を謀るなど多数。2005年に、天馬、翔けるで中山義秀文学賞を、2012年に、等伯で直木賞を受賞。
 


 

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