拙堂齋藤先生碑 現代語訳

登録日:2018年8月3日

拙堂齋藤先生碑(篆額)


式部官従四位伯爵 藤堂高紹篆額

拙堂先生の没後五十年、嫡孫正彰からの書簡に、「私の祖父(拙堂)と父(誠軒)とは(拙堂の)碑銘を土井有恪に依嘱していたが、有恪は祖父及び父のあとを追って亡くなった。今やこの碑文を貴殿に頼まなければ祖父の行実は堙滅してしまうであろう」とあった。私は先生晩年の門人の末席に連なった者であるが、已に大変高齢なので、もし今この依頼を請けなければ師恩に背くことになるであろう。それで、同門中内惇が撰した「小伝」を要約しこの碑銘を撰するのである。先生の本名は正謙、字は有終という。通称は徳蔵。拙堂、鉄研、拙翁はその別号である。家系は齋藤実盛の一族から出て、その子孫は伊豆の三島に住み、代々その土地の名家であった。正親の代になって江戸に入り、津藩侯藤堂家に仕えた。これが先生の祖父源蔵・正親である。先生の父は本名を正修といい、本姓は増村であったが齋藤氏に入婿となって家督を継ぎ、寛政九年、先生を江戸の藩邸に生んだ。先生は幼い頃から聡明で、稍や長じて昌平黌に入り、古賀精里に学び何よりも古文に力を注いだ。二十歳をこえたころには一家を成していた。第十代藩主高兌公(誠徳公)が津に藩校を創設するに当たり、先生を教員に採用したので住居を津に移した。二十四歳の時であった。たまたま京都に行き頼山陽を訪ねたが、山陽はその時、はじめは拙堂を書生として応対した。ところが、その文章を見て非常に驚き、すぐに先生を上座に招き、その後は友人として待遇した。文政年間、講官(教授)に任ぜられ、禄高は百五十石になった。やがて高兌公が薨じ、高猷公(詢蕘公)が継いで第十一代藩主になった。公は、わずかに十二歳であった。先生は講官で藩主の侍講を兼ねるように命じられた。先生は日々幼君の側にいて教導すること十数年、主君の学問・徳行はいずれも著しく向上した。後日、賢君と評判されるようになったのは先生の力によるところが大きい。禄は次第に増して二百石になった。また参勤交代で藩主に従って江戸に出府し、天下の名士と交わり益々見聞知見を広め、それとともに、先生の評判も一段と高まった。天保十二年、四十六歳の時、郡奉行の職に転出した。つとめて民の害を除こうと、大庄屋の中で悪質な数人を罷免した。農民たちは非常に喜んだが、まだ在勤期間が短く、行政官としての事業が十分できないうちに、再び藩校に戻らなければならなくなった。弘化年間に督学に昇進して、文武にわたる藩校の運営ならびに全藩の学政を統括した。先生は学則を改訂し、広く書物を買い入れ、資治通鑑の出版を完成させた。演武場を設けて軍事訓練を強化した。津藩の文教は大変盛んになり、多くの人材が育った。他藩の藩士たちが評判を聞き、学びに来るものが常に数十人もいた。安政二年、徳川家第十三代将軍家定公が先生を召して謁見し、幕府儒官に取り立てようとされたが、先生は藩公に仕えて三十年、その間、教訓は受け入れられ、献策は採択され、手厚い待遇を加えていただいたのに、今津藩を去って自分だけが栄光の座につくのは情義として忍びないという気持ちから、結局病気を理由に辞退して津に帰った。藩公は大変喜び郊外に出迎え、家禄を増やして三百石とし、督学の職はそのままとした。その後六年して、先生は職を退き長男正格が家を継いだ。藩公は先生に養老手当として十五人扶持を給せられた。これに先立ち、先生は別荘を津城の北、茶臼山(茶磨山)のふもとに造った。丘を背にし、海を見下ろして眺めは最高。邸内には母屋と離れ座敷、あるいは亭が、花木、泉水、庭石とともに点在していた。先生はここを公務の余暇に来てくつろぐ場としていた。引退後はこの別荘に移り住み、訪ねて来る客に会い、また学生を招いて、詩文を作り酒をくみ交わして老後を楽しんだ。藩公も時々来て意見を聞かれることがあったという。慶応元年七月十四日病気のため逝去。六十九歳であった。四天王寺にある父の墓の隣に埋葬された。門人は自分たちで謚をきめ文靖先生とした。先の夫人鈴木氏は一人の男子を生んで死んだ。それが正格である。後妻は高畑氏の出で三男四女を生んだ。二人の娘は茨木氏と七里氏に嫁ぎ、他の子女はみな幼くして死んだ。正格の子息が正彰で、以前、私(三島中洲)の門下にいたが、今は家を守り郷里の学校で教えている。拙堂先生の顔にはあばたがまだらに残り、大きい耳が高く聳え、向かい合って坐ると先ず二つの耳たぶが、目に付いた。威厳のある姿には畏るべきものがあった。しかし、心は広く明るくて誠実一筋に人と交わり、人の才能を愛することは渇いた人が水を求めるようであった。学識意見はよく道理にかない、学問は古今いずれにも通じ、儒学の経典の解釈については、宋学を奉じたが決してその説に拘らなかった。俗文学は好まなかった。漢籍の各分野に精通していたばかりでなく、我が国や西洋の典籍にも詳しく、これらを経世の実務に使おうとしていた。嘉永から安政にいたる間、山陽はもはや亡く、佐藤一斎もまた齢を取り過ぎ、国内で文章家として名を挙げられるのは、ただ先生だけとなって、隠然たる重鎮であった。詩には若い頃熱心でなかったが、晩年に至り梁川星巌や広瀬旭荘らと交際して切磋琢磨し詩作を高めるのに大いに得るところがあった。古詩がもっとも得意で、韓愈や蘇軾の神髄を得ていた。著書の内、『拙堂文集』、『正・続文話』、『月瀬記勝』、『海外異伝』はすでに出版されており、「北畠国司紀略」、「魯西亜外記」、「兵話」など十数部が今も素稿のまま家に所蔵されている。私が先生の門に入ったのは嘉永五年で、先生はまだ退官されていない頃だったので、月に何回か別荘に伺った。私は先生に教えを受けること五年、先生の声や咳払いが今も聞こえてくるような感じをもつ。しかしながら、今はあの世とこの世とに遠く離れているため、筆をとって直して頂くことは出来ない。下手な文ながら敢えて銘を作り思いを表す次第である。
 
先生の文/当時に冠絶/詩文の規則厳格/美しく輝く/聖人を祖述しては日用の則/時局の策を立てては事宜に適う/事を記し人を伝えるは韓・柳が師/銘・墓・序・書は欧・蘇に則る/蘇文の潮 韓文の波/すばらしい眺め/文章のような風景の中にある/これぞ先生の碑
大正四年十二月


受業弟子宮中顧問官従三位勳一等文学博士 三島 毅謹撰
東京女子高等師範学校講師 岡島起作敬書 
東京 井亀泉 刻

【訳文 齋藤拙堂顕彰会会長 齋藤正和氏】

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