「広報津」第316号(音声読み上げ)歴史散歩 第153回、津市(このまち)で輝く

登録日:2019年2月16日

このページは、音声読み上げソフトウェアに対応するため、語句のなかで一部ひらがなを使用しています。


15ページ目から16ページ目まで

歴史散歩 第153回 

市指定史跡 おうかの一本松跡

安濃川沿いを通る県道42号から安濃町荒木にある明合橋を渡ってすぐ左に曲がり、南方向にしばらく進むと、木々が茂る一角に一本松の跡と文字の彫られた石碑が見えてきます。これが、市指定史跡 おうかの一本松跡です。
ここには、昭和56年まで江戸時代初期の寛文3年(1663年)に植えられた松の大樹があり、おうかの一本松と呼ばれ親しまれていました。ところが、虫害のため枯死してしまい伐採せざるを得なくなってしまったことから、この歴史的な松があったことを後世に伝えるため、昭和57年8月に おうか区の人々によって、石碑が建立されました。
この地に一本の松が植えられたのには理由があります。江戸時代初期、安濃川から田んぼに水を取り入れる際に、右岸となる おうか村と左岸に当たる安濃村との間に起こった水争いが発端となっています。
当時は米作りが経済の基本であったため、人々にとって水不足は死活問題でした。両村の取水は半分ずつという慣例はありましたが、安濃川の川筋が変化したり、干ばつが発生したりするなどで水不足になると、少しでも多くの水を得ようと争いが起こったといいます。
そのような中、寛文3年に起こった水争いの際、今後このような争いを防ぐため、安濃川からの取水場所の境界の目印として、津藩の大庄屋が両村から確認できる場所に永代証拠松とする一本の松を植えて決着させました。
時代の変わった今日でも、平成12年2月に石碑から東に6メートルほど離れたところに2代目の松が植えられるなど、歴史を刻む場所として地元の人々に大切にされています。
安濃ダムにより安定した農業用水が供給されるようになった現在では、当時と変わらず稲作が盛んに行われており、豊かな田園風景が広がっています。

津市(このまち)で輝く

ボリューム34 本物とは飽きのこないもの お菓子もそうあるべき
菓子の館 とね 取締役会長 とね ひろし(70歳)

プロフィール

1948年2月29日津市生まれ。趣味はスケッチ旅行。車で日本列島3万3700キロメートルを走破。現在は、製菓学校で講師を務め、未来の菓子職人の育成に尽力しているほか、津市物産振興会のスイーツ部会会長として、スイーツ業界から地域を活性化するため、スイーつフェスタなどの開催に向けて精力的に取り組んでいる。

座右の銘は、今日という日は残された人生の第一日目である。
学生時代はトランペッター。憧れのスターはニニ・ロッソ。

技術だけで売れる訳ではない 地域の人に合わせた味が大事

本物とはどういうことか。菓子の館 とね の先代社長 とねひろし さんは、自問自答を繰り返していた。
家業である津の和菓子店に戻り3代目として昭和51年に後を継ぐ。洋菓子の老舗、東京ヒサモト洋菓子店で学び、スイスの国立製菓学校やフランスの有名パティシエの下で修行し、本物の洋菓子レシピを引っ提げての凱旋であった。しかし、父 きよのりさんの作る和菓子の横で、タルトやプチフールを売り始めたが、一向に売れなかった。
(とねさんのコメント)完全なフランス菓子を津で作っても全く売れへん。(コメントおわり)1年悩み抜いた末、初心に帰って生クリームから作り直した。当時の日本では珍しく低脂肪にこだわった。生クリームを軽くしてスポンジも軽く。軽さとうまさがマッチしてケーキが飛ぶように売れ出した。
(とねさんコメント)おいしいか、まずいか決めるのはお客さん。自己満足で作っては駄目。地域に合わせた味を提供するのが商売(コメントおわり)
冒頭の答えは、長年愛用している茶碗が教えてくれた。何年も使い続けているのは飽きないから。お菓子も同じ。創業者である祖父と二代目の父が開発した和菓子の一つは、80年以上も続くヒット商品である。店を育ててくれた津の皆さんに恩返しするため、本物を作り続ける。その精神はこれからも受け継がれていく。


前のページへ

次のページへ

第316号の目次へ

このページに対するアンケートにお答えください

このページは見つけやすかったですか?
このページの内容はわかりやすかったですか?
このページの内容は参考になりましたか?

このページに関するお問い合わせ先

政策財務部 広報課
電話番号:059-229-3111
ファクス:059-229-3339