(津市指定有形文化財)
子午の鐘は、もとは武家屋敷の中大手町(現在の東鷹跡町)にあり、時を知らせる鐘として元文元(1736)年に造られました。
寛政元(1789)年に今の位置に移され、しばらく火事を知らせる鐘として使われていました。しかし、時を知らせる陣屋内の太鼓が遠くまで聞こえなかったので、町の人々はたびたび奉行所へ鐘の復活を願い出て、寛政9(1797)年より時を知らせる鐘として再び突かれるようになりました。
太平洋戦争期にはこの鐘は陸軍へ供出されましたが、終戦後、運よく町の人々によって発見され引き戻されました。
その後、昭和34(1959)年の伊勢湾台風では鐘堂とともに落下するなど、数々の危機を乗り越えてきました。
現在は、時の記念日(6月10日)と大晦日に鐘突きが行われ、地域の宝として大事に守られています。
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久居藩の陣屋跡地の一角にある公園で、この一帯は藩主が住んでいたことから「御殿山」と呼ばれています。
公園内には、久居藩初代藩主高通公の久居入府250年を記念して大正10(1921)年に建てられた「御殿山の記念碑」があります。石碑は本体だけで高さ4メートルを超える大きなもので、歴代の久居藩主の功績をたたえる碑文が彫られています。
御殿山記念碑
御殿山記念碑 碑文訳(PDF/134KB) (三ツ村健吉著「三重の碑百選」より)
また、昭和3(1928)年に建てられた「玉井丈次郎先生彰徳碑」もあります。玉井丈次郎(たまいじょうじろう)は、明治41(1908)年、津~久居間の軽便鉄道(けいべんてつどう)の開通に重要な役割を果たし、また陸軍第三師団が三重県に部隊を置く際には、連隊の誘致に乗り出し、歩兵第51連隊の招致を成功させるなど、久居の町の発展に著しく貢献をした人物で、碑文には、その功績が記されています。
玉井丈次郎彰徳碑
玉井丈次郎彰徳碑 碑文訳 (三ツ村健吉著「三重の碑百選」より)(PDF/154KB)
このほかにも、昭和8(1933)年に建てられた久居町と本村の合併記念碑や、平成6(1994)年に高通公生誕350年を記念して建てられた句碑などもあり、久居の歴史をたどることができます。
久居町・本村合併記念碑
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八幡宮はもともと雲出川の岸の小戸木村にありましたが、寛文10(1670)年に初代藩主高通公が久居に城下町を開く際に御殿の鬼門に当たる現在の場所に移し、久居の総鎮守(そうちんじゅ)としました。
その後、明治41(1908)年に「神社合祀令」により村内の23社が合祀され、社名が野辺野神社に改称されましたが、令和2(2020)年1月1日に御鎮座350年を記念して、創建当初の久居八幡宮に戻されました。
境内には、高通公の時代に寄進された石灯籠が建っています。
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久居藩の菩提所として初代藩主高通公から境内地が与えられ、延宝7(1679)年に創建されました。 文政4(1821)年の「久居焼け」といわれる大火により焼失しましたが翌年に再建、また明治36(1903)年に再び焼失し、現在の本堂は大正3(1914)年に再建されたものです。今も鐘堂に大火の跡が残されています。
境内には藤堂家の墓所があり、2代、3代藩主の大五輪塔があります。また、本堂には市の文化財である藩主の木像(初代藩主高通公の像、2代藩主高堅公の像)が納められています。
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天台宗比叡山延暦寺の末寺に属し、創建は奈良時代の天平年間(730年ごろ)と伝えられています。南北朝時代に兵火を被りましたが、北畠氏が再建し、以来北畠氏代々の祈願所となりました。その後、織田信長の軍勢により焼失しましたが、江戸期に入り寛永年間(1630年ごろ)に再興されました。
久居藩初代藩主高通公も深く本尊に帰依し、貞享2(1685)年に銅灯籠を寄進しています。現在、この銅灯篭は市の指定文化財となっています。他にも、鎌倉時代に製作された如意輪観音菩薩座像、江戸時代に再建された仁王門も市の指定文化財となっています。
また、石造板五輪塔は鎌倉中期のもので、奈良東大寺大仏殿を再建した重源上人(ちょうげんしょうにん)の母の三十三回忌供養のために建立されたものと伝えられています。石を組み合わせたものではなく、板状の花崗岩を五輪塔に刻んだ珍しい形式で、三重県下最古のものです。三重県の指定文化財にもなっています。
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