藤堂高虎が、慶長13(1608)年伊予国今治(愛媛県今治市)から伊賀・伊勢国に移ってきたころは、慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いの際の籠城戦で津城下は傷跡が大きく、さほど復興されていない状況でした。城の規模も小さく、国持大名にふさわしい規模に拡張する必要がありましたが、高虎は命を受け他国の城の改修などに奔走して、なかなか自国の城に手を付ける余裕がありませんでした。慶長16(1611)年になってようやく伊賀上野城と津城の修築に取り掛かることになり、まず伊賀上野城の大改修にかかり、高い石垣を持つ要害堅固な城を造り上げました。一方、津城は平時の居城として必要な規模と、伊勢街道第一の町としての体面と美観とを備えるための町づくりを進めました。津城の修築の主な内容は次のとおりです。
このように高虎は、元の城の縄張りを大幅に変え、北方の備えを万全にするため、本丸・外郭を中心に手を加えて城の規模拡大を図りました。そして慶長16年正月から開始された津城の改修は、わずか半年で外郭がほぼ完成したといわれています。