現在の津の町は、藤堂高虎によってつくりあげられたといっても過言ではありません。
高虎は、町づくりにも心を配り、いろいろ工夫を加えています。城を中心に北・西・南の三方に武家屋敷を集結させ、東に町屋を置きました。また、城下町全体を土塁や堀などで防衛する構造を考え、津の城下では町の東側に堀川を掘って船入れとして、さらに北へ観音寺の裏から塔世川(安濃川)の支流である桜川の小流につないで、城下の最も外側の守りとする計画でした。城下町の東側は堀川を境に、その外側に寺院を配置して万一の場合の防御の最前線としました。西側の武家屋敷の西一帯は湿田で、ここに町屋を建てることを禁止して、万一の場合と火災に備えました。
町の発展策として挙げられるのが、従来町はずれの海岸近くを通っていた伊勢街道を城下町のなかを通過させるようにしたことです。これによって、参宮道者が城下を通行するようになり街道沿いの宿屋や商店は大いに繁盛して、その後の町の繁栄に大きな影響を与えました。また高虎は、新しくいくつかの町をつくりましたが、なかでも伊予町は高虎が前任地の今治から連れてきた人々を住まわせた所で、また寺院の集団地として寺町をつくり、漁民と漁商は浜魚町、海運業者の居住地を築地町などに限定しました。
津の町づくりは、高虎一代で完成したわけではなく、2代、3代藩主へと受け継がれ約90年かかって一段落し、城下町として宿場町として、たいそうな賑わいを見せて、「伊勢は津でもつ」といわれるほどになっていきました。