谷川士清(たにがわことすが)

登録日:2018年8月3日

谷川士清(1709~1776)は、伊勢の生んだ二大国学者の一人で、本居宣長と並び称される学者です。
士清は、宝永6年(1709)八町で町医を営む谷川義章の長男として生まれました。幼い頃から家業を継ぐため勉学に励み、さらに一人前の医者になるため享保15年(1730)頃からおよそ5年間京都に遊学しました。京都では本草家松岡玄達から本草学・儒学などを学び、垂加神道を神道家松岡忠良に、次いで松岡忠良の師玉木正英に入門し「神道許状」を受けました。医学は、医の宗家福井丹波守に学び医師免許を受け、本格的に学問を修めた後、享保20年(1735)8月津に帰郷しました。

京都から帰った士清は、医者の号を「養順」、号を「淡斎」と称して父の跡を継いで医者となり、地域・近郊の人々の信頼を受けていました。医業のかたわら学問にもうちこみ、慕ってくる人々のために家塾「洞津谷川塾」を開き、また近隣に「森陰社」(振々霊社)という道場を設け、多くの人々を教えたと伝えられています。
 

 

紙本淡彩 谷川士清肖像画像

県指定文化財「紙本淡彩 谷川士清肖像画像」(津市 蔵)


士清自身の研究による著書として、宝暦元年(1751)には20年あまりかけて研究した日本書紀の注釈書「日本書紀通証」(全35巻)を完成させ、世間の学者を驚かせました。特に第1巻附録の「和語通音」は動詞の活用図表で、それを見た本居宣長はその学識にうたれ、以後手紙を交わして交友が始まりました。また士清の偉業に、わが国最初の五十音順にならべられた国語辞典、「和訓栞」(全93巻)をまとめたことが挙げられます。
士清は晩年、安永4年(1775)に「反古塚」(市指定史跡)を建てています。これは、後世に自分の説が誤って伝わることがないように、これまで自分が書いて不用になったメモや下書き(反古)を埋めたといわれています。しかしその翌年安永5年、大著『和訓栞』の出版にとりかかる矢先に不幸にも病のため、亡くなってしまいました。
士清は、生家にほど近い福蔵寺に葬られ、現在その墓碑は国史跡の境界石柱で囲まれています。また、生家は「谷川士清旧宅」(国指定史跡)として一般に公開されています。
 

谷川士清反古塚の写真

市指定史跡「谷川士清反古塚」(谷川神社境内)

 

 

谷川士清パンフレットの画像

 谷川士清について紹介したパンフレットをご覧いただけます。
 ダウンロードは「士清さんの生い立ち」(PDF/1.5MB)

 

 

 

概要 士清の2大著書 略年譜  谷川士清旧宅

 

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