年代 | 事項 |
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宝永6年(1709) | 2月26日、伊勢国安濃郡八町(津市八町3丁目)に生まれる。 |
享保6年(1721) | 浩天和尚(福蔵寺住職)が中御門天皇から御綸旨を戴くため上京する際、その一行に加わる。 |
享保15年(1730) | 京都に遊学し、松岡玄達に本草学・儒学などを学ぶ。福井丹波守につき医学を学ぶ。 |
享保16年(1731) | 4月、松岡忠良に垂加神道を学び、ついでその師玉木正英につく。5月小笠原家から「生花許状」を受ける。 |
享保17年(1732) | 9月27日、玉木正英から「神道許状」を受ける。 |
享保20年(1735) | 6月16日、玉木正英から許されて、「歌道筒守三重巻」を書写する。『玉籤集』を書写する。このころ、京都の山下氏と結婚する。医論「熱入血室之弁」他二編著す。8月、帰郷する。森陰社・洞津谷川塾を開く。 |
元文元年(1736) | 家業の医者を継ぐ。 |
元文4年(1739) | 嗣子士逸生まれる。4月、玉木正英の『神代紀藻塩草』・『神武紀藻塩草』を森陰社において刊行する。 |
寛保元年(1741) | 10月、山崎闇斎・玉木正英・松岡玄達の蔵本により『日本紀』に朱点書き入れを行う。 |
寛保2年(1742) | 11月、『万葉集』の校註を終わる。 |
寛保3年(1743) | 五條天神社司蔵板『日本紀』・『卜部氏古本』・『松下氏伝本』を校正加註改訓する。 |
延享2年(1745) | 諸家蔵本により『日本紀』の校正を終わる。 |
延享3年(1746) | 長女八十子が生まれる。 |
寛延元年(1748) | 3月、『日本書紀通証』の草稿がほぼできる。9月、『鋸屑譚』巻1の草稿ができる。 |
寛延2年(1749) | 9月、古世子明神へ「鳴弦弓矢一具」を奉納する。 |
宝暦元年(1751) | 『日本書紀通証』35巻がすべてできる。 |
宝暦2年(1752) | 4月、有栖川職仁親王に和歌入門を願い、5月入門を許される。 |
宝暦4年(1754) | 有栖川職仁親王から「十躰和歌」短冊をいただく。 |
宝暦5年(1755) | 妻山下氏亡くなる。 |
宝暦6年(1756) | 河北景えだ、正親町実連『日本書紀通証』の序文を書く。『日本書紀通証』初版を印刷する。 |
宝暦7年(1757) | 有栖川宮へ『日本書紀通証』を献上する。 |
宝暦8年(1758) | 『勢語臆断』(契沖著)の異本をひき比べて異同・正誤を正す。 |
宝暦10年(1760) | 蓬莱尚賢が入門する。野田で銅鐸が発掘されたことを聞き、入手する。 |
宝暦11年(1761) | 長女八十子と蓬莱尚賢が結婚する。津藩の扶持を受ける。山崎闇斎の墳塋(墓)補修の資金を出す。 |
宝暦12年(1762) | 『日本書紀通証』を出版する。山崎闇斎の墳塋完工式に列席する。伊勢で講義する。 |
宝暦14年(1764) | 3月11日、父順端が亡くなる。 |
明和2年(1765) | 本居宣長から初めて手紙を受ける。孫士行が生まれる。 |
明和3年(1766) | 10月、『勾玉考』の草稿ができる。 |
明和4年(1767) | 『怪談記野狐名玉』5巻を出版する。 |
明和6年(1769) | 津藩主にお供し長谷山に遊ぶ。 |
明和7年(1770) | 本居宣長とたびたび手紙を交わす。 |
明和8年(1771) | 『和訓栞』の草稿を本居宣長に送る。 |
安永元年(1772) | 『和訓栞』の編著につとめる。 |
安永2年(1773) | 友人河北景えだが『火忌説』を、木内石亭が『雲根志』を刊行する。 |
安永3年(1774) | 『読大日本史私記』を著す。『勾玉考』を出版する。門人の三井丹丘が、士清の肖像画を描く。 |
安永4年(1775) | 5月、古世子明神境内に反古塚を築く。自宅の修築を行う。嗣子士逸が追放される。 |
安永5年(1776) | 『和訓栞』前編の出版準備に専念する。10月10日、逝去。福蔵寺に葬られる。 |
安永6年(1777) | 『和訓栞』前編13巻を出版する。 |
文化2年(1805) | 『和訓栞』前編14巻から28巻までを出版する。 |
文政13年(1830) | 『和訓栞』前編29巻から45巻までを出版する。 |
文久2年(1862) | 『和訓栞』中編30巻を出版する。 |
明治20年(1887) | 『和訓栞』後編18巻を出版する。 |
明治31年(1898) | 『和訓栞』洋装本3冊を出版する。 |
大正4年(1915) | 11月10日、従四位を追贈される。 |
概要 | 士清の2大著書 | 略年譜 | 谷川士清旧宅 |