谷川士清 略年譜

登録日:2018年8月3日

略年譜
年代 事項
宝永6年(1709) 2月26日、伊勢国安濃郡八町(津市八町3丁目)に生まれる。
享保6年(1721) 浩天和尚(福蔵寺住職)が中御門天皇から御綸旨を戴くため上京する際、その一行に加わる。
享保15年(1730) 京都に遊学し、松岡玄達に本草学・儒学などを学ぶ。福井丹波守につき医学を学ぶ。
享保16年(1731) 4月、松岡忠良に垂加神道を学び、ついでその師玉木正英につく。5月小笠原家から「生花許状」を受ける。
享保17年(1732) 9月27日、玉木正英から「神道許状」を受ける。
享保20年(1735) 6月16日、玉木正英から許されて、「歌道筒守三重巻」を書写する。『玉籤集』を書写する。このころ、京都の山下氏と結婚する。医論「熱入血室之弁」他二編著す。8月、帰郷する。森陰社・洞津谷川塾を開く。
元文元年(1736) 家業の医者を継ぐ。
元文4年(1739) 嗣子士逸生まれる。4月、玉木正英の『神代紀藻塩草』・『神武紀藻塩草』を森陰社において刊行する。
寛保元年(1741) 10月、山崎闇斎・玉木正英・松岡玄達の蔵本により『日本紀』に朱点書き入れを行う。
寛保2年(1742) 11月、『万葉集』の校註を終わる。
寛保3年(1743) 五條天神社司蔵板『日本紀』・『卜部氏古本』・『松下氏伝本』を校正加註改訓する。
延享2年(1745) 諸家蔵本により『日本紀』の校正を終わる。
延享3年(1746) 長女八十子が生まれる。
寛延元年(1748) 3月、『日本書紀通証』の草稿がほぼできる。9月、『鋸屑譚』巻1の草稿ができる。
寛延2年(1749) 9月、古世子明神へ「鳴弦弓矢一具」を奉納する。
宝暦元年(1751) 『日本書紀通証』35巻がすべてできる。
宝暦2年(1752) 4月、有栖川職仁親王に和歌入門を願い、5月入門を許される。
宝暦4年(1754) 有栖川職仁親王から「十躰和歌」短冊をいただく。
宝暦5年(1755) 妻山下氏亡くなる。
宝暦6年(1756) 河北景えだ、正親町実連『日本書紀通証』の序文を書く。『日本書紀通証』初版を印刷する。
宝暦7年(1757) 有栖川宮へ『日本書紀通証』を献上する。
宝暦8年(1758) 『勢語臆断』(契沖著)の異本をひき比べて異同・正誤を正す。
宝暦10年(1760) 蓬莱尚賢が入門する。野田で銅鐸が発掘されたことを聞き、入手する。
宝暦11年(1761) 長女八十子と蓬莱尚賢が結婚する。津藩の扶持を受ける。山崎闇斎の墳塋(墓)補修の資金を出す。
宝暦12年(1762) 『日本書紀通証』を出版する。山崎闇斎の墳塋完工式に列席する。伊勢で講義する。
宝暦14年(1764) 3月11日、父順端が亡くなる。
明和2年(1765) 本居宣長から初めて手紙を受ける。孫士行が生まれる。
明和3年(1766) 10月、『勾玉考』の草稿ができる。
明和4年(1767) 『怪談記野狐名玉』5巻を出版する。
明和6年(1769) 津藩主にお供し長谷山に遊ぶ。
明和7年(1770) 本居宣長とたびたび手紙を交わす。
明和8年(1771) 『和訓栞』の草稿を本居宣長に送る。
安永元年(1772) 『和訓栞』の編著につとめる。
安永2年(1773) 友人河北景えだが『火忌説』を、木内石亭が『雲根志』を刊行する。
安永3年(1774) 『読大日本史私記』を著す。『勾玉考』を出版する。門人の三井丹丘が、士清の肖像画を描く。
安永4年(1775) 5月、古世子明神境内に反古塚を築く。自宅の修築を行う。嗣子士逸が追放される。
安永5年(1776) 『和訓栞』前編の出版準備に専念する。10月10日、逝去。福蔵寺に葬られる。
安永6年(1777) 『和訓栞』前編13巻を出版する。
文化2年(1805) 『和訓栞』前編14巻から28巻までを出版する。
文政13年(1830) 『和訓栞』前編29巻から45巻までを出版する。
文久2年(1862) 『和訓栞』中編30巻を出版する。
明治20年(1887) 『和訓栞』後編18巻を出版する。
明治31年(1898) 『和訓栞』洋装本3冊を出版する。
大正4年(1915) 11月10日、従四位を追贈される。


概要 士清の2大著書 略年譜 谷川士清旧宅

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