津藩士の子弟教育のために創設され藩の将来を支える人材育成の拠点となった藩校有造館と、その教育内容の高さから藩校の評価を高めた中心的な人物、齋藤拙堂を紹介します。 |
|
【藩主念願の学校創設】 |
|
【有能な学者のそろった有造館】 江戸時代後期、全国で300以上の数ある藩の中で、津藩は文藩(教育・学問に優れた藩)と呼ばれました。 その理由は、学問に熱心な藩校創設者の10代藩主高兌の下に多くの優れた学者が集められ、充実した教育環境が知られたことによります。 督学として藩校を指揮した人物は、いずれも大きな業績を残しています。初代津坂孝綽(東陽)は有造館の創設に関わって藩校教育の基礎を築き、2代石川之褧(竹厓)は、藩校主要事業の一つとなる出版事業の開始に中心的な役割を果たしました。そして、3代目の督学となったのが漢学者の齋藤拙堂です。 |
入徳門(市指定文化財) 藩校の講堂の有造館敷地へ入る門で、戦災を免れて今に残る唯一の建物。津城跡西之丸(お城公園)に移設されている。 |
【藩主の信頼の厚かった拙堂】 齋藤拙堂は、寛政9(1797)年に津藩江戸藩邸に生まれ、本名を正謙、通称徳蔵、字を有終、別号を鉄研と称しました。 昌平黌(江戸幕府の学問所)に学んだ拙堂は、20歳の頃には学者として名を成し、文政6(1823)年に26歳で藩校講官となり、その後29歳で11代藩主高猷(たかゆき)の侍講(教育主任)を兼務しています。藩主の信頼も厚く、しばしば江戸に随行して多くの学者・文人と親交を結びました。 |
津藩藩校有造館跡(市指定史跡) |
【旅行ガイドブックの先駆け『月瀬記勝』】 |
齋藤正謙肖像画(池田雲樵筆) 拙堂63歳の時に描かれたもので、特徴的な大きな耳が捉えられている。 (齋藤正和氏 所蔵) |
【吉田松陰など幕末の偉人との交流】 |
『月瀬記勝』 |
【晩年を過ごした栖碧山荘(茶磨山荘)跡】 |
拙堂墓所(栄町・四天王寺) |
|
|
|
|